神秘の霊薬として知られている高麗人参はウコギ科人参属で多年生草本類として、1843年にロシア(旧ソ連)のCarlAntonVonMeyerが命名しました。
高麗人参の俗名であるPanax(パナクス)はギリシャ語Pan(すべて)とAxos(医薬用語で治療すると言う意味)が結合された複合語として”万能薬”という意味で由来されました。
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ジンセン(Ginseng)は人参の中国音を表記したと伝われいます。
漢方では、根だけを高麗人参(Ginseng radix)として薬用に使用しています。
人参がいつから薬用として使用されているが、正確な記録が残ってはいませんが、
約2000年前の古代中国の前漢時代の史遊が著した急就章に高麗人参の記録があり、中国の最高本草書である神農本草経に高麗人参の効能についても比較的具体的に記述されています。
高麗人参が2000年前から薬用として使用されてるなら、日本にはいつ頃伝わったのか調べてみました。
高麗人参の伝来
西暦414年
日本では古代から人参は、自生していませんでした。
外部から移植されたこともないため、人参を薬用に使用されたこともないといいます。
西暦456年
新羅に続いて百済や高句麗から名医達が日本に渡って医術を業にしたとして、その当時までも高麗人参は伝来していなかったといいます。
西暦701年
文武天皇の天宝元年に別定された医師制度は、「医生は(甲乙経)(脈経)(新修本草)を学ばなければならない。」として、
その中で「新修本草」には、高麗人参が薬剤として記載されています。
西暦733年
発行されたものと伝えられた「出雲國風土記」に高麗人参が記載されているが、これは「ニユク」と呼ばれ、
現在の高麗人参とは別の植物です。
西暦737年
当時大流行していた大規模な伝染病のため高麗人参の服用を許可しました。
西暦739年
渤海文王の時代には韓国から人参30斤を贈り物に受けたと言います。
その後、高麗人参は頻繁に韓国から贈り物や交易に日本に輸入され、薬用として利用し始まりました。
栽培の歴史
初期
日本の高麗人参栽培は歴史的記録が明確でないのですが、1607年頃、徳川家康が韓国の種として、
韓国から高麗人参の種子を輸入して(伊達政宗)と(佐竹義宣)に栽培するように命じたという歴史がありますが、
その文獻はまだ発見調査されていないです。
また、当時の日韓の国交正常化にも正式には高麗人参の種子を与えたり、受け取った歴史的な記録もないものとなっています。
対馬でも高麗人参を栽培したという記録がありますが、これは韓国から生根を輸入して土に埋めておいたことが商取引に利用されたと伝われています。
中期
通常の取引で日本に高麗人参が輸入され薬用として利用されるようになりました。
その成果が高く認められて、高麗人参の需要は増加して、供給の不足現象になり自給について論ずるようになりました。
その始まりは德川幕府では学者達を通して高麗人参栽培方法を調査して栽培を始めたことです。
1727年(亨保12年)12月12日28日には2回ほど韓国から種子を持ってきて1728年8月28日には水野和泉守を経由して高麗人参種子60本と生根8本を持って、
高麗人参栽培を試して、和田長純に人蔘辯を著述させて、高麗人参栽培をしたり技術や気候の面で日本は不適合であまり栽培が成功できてなかったようです。
近代
近代の日本の高麗人参栽培は1945年以前までは日本国内の栽培・生産は多くなかったため、ほとんどが韓国から生産された高麗人参を主に取引されていました。
1945年以降に大隅敏夫さんが高麗人参栽培を復活させたと伝わっています。
最近は人件費や農地面積の活用などで難問が重なって高麗人参の栽培面積が減少する現象があり、日本は国内で栽培している地方は主に長野、島根、福島県などに限られているようです。
高麗人参正官庄 認めれる
日本で人参が薬用に利用された記録や栽培された年代は残念ながら残されていないのですが、
日本における高麗人参栽培は1607年説と1720年頃の国内生産分は不足して需要に対応して日本国内栽培を試みたが失敗しました。
1728年満州参と韓国参種と野生の高麗人参を「日光」で栽培して最初に成功しましたようです。
最後まであきらめないで成功させようと努力した方達おかげで高麗人参正官庄も認めれるようになりました。
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